遠き山に日は落ちて 第15話 12時半の男 

2002年の8月に、危篤だと連絡が入った。

毎週、判で押したように夜中の12時半になると電話が鳴る。順番にかけていくと、この時間になるのであろうか。

「おう、どないしてるう」

その電話ももう掛かってこなくなった。

橋本君の家へ行ったことがある。JR阪和線で信太山駅まで行くと、自転車で迎えに来ていた。

「後ろに乗ってよ」というので言われるままに乗るが、橋本君に乗せてもらうのは、ばつが悪いし心配だった。数分で彼の行きつけの喫茶店に着く。壁には彼の描いた大きな油絵が掛かっていた。

コ-ヒ-を飲み終えてから、家を案内してくれた。一階のガレ-ジがアトリエになっていて、大きなプレス機があり、紙入れが3段積まれ、タンノイのスピーカーと真空管式アンプが据えてあった。二階がキッチンと居間、三階がベットル―ムになっていた。すでに両親を亡くし一人で住んでいるのだが、意外なほどよくかたづいていた。

コタツに入ってきょろきょろ見まわしていると、橋本君が「カレ-を作ったから食べて」といった。カレーを食べる彼に「左利きか」とたずねると、だまっていた。

電話を受けてから、車を走らせ20分程。病院に着くと友人の佐藤君(仮名)がベッドの前で座っていた。

橋本君の目と口は開いていて、荒い呼吸で肩が波打っていた。大きく見開いた目は乾燥してカサカサしていた。

若い看護婦が来て、思い出したように目を閉じさせた頃には呼吸も弱くなり、喉仏だけがゆっくり左右に動いていた。心電計が運び込まれ当直医が来てひとしきり静寂がつづいた後、臨終が告げられた。呼吸は止まっていたが心電図が微妙にゆれている。

人の死に向き合ったのは、はじめてだった。

戸惑っていると、彼をよく知る婦長さんが私服でかけ込んで来て、「橋本さん、聞こえてるやろ、よおがんばったなあ」と彼の両肩を激しく揺さぶった。

僕は何か救われたような気がした。

喧嘩っ早い彼は、小児麻痺のハンディを思わせない強さを持っていた。彼岸花のような朱色の朝焼けが、鮮烈に生きた彼の永訣のしるしのように窓枠を染めた。

佐藤君から電話が入り、車で信太山の自衛隊駐屯地跡にある火葬場へと向かった。

橋本君は右半身に障害があった。彼が出入りしていた障害者作業所の人達が、手作りの祭壇を供えていた。両端に花束、中央に彼が描いた油彩の自画像が飾られ、その両脇に彼のエッチング作品が置いてあった。

簡素でとてもいい雰囲気だった。顔なじみのアーティストが数人集まり、同窓会となった。

翌朝、祭壇の真向かいにある炉で火葬が行なわれた。ひとしきり説明をうけた後、骨を骨壺に入れた。葬儀屋さんもお坊さんもいない。この後どうするのか佐藤君に尋ねると、両親のお墓に骨壺を入れに行くとのことで、スコップが用意されていた。

その時、数人の人がどやどやと入って来て、手に持っていた花束を置いて帰って行った。橋本君の親戚だったが、死者と関わり合いたくないとのことだった。突然の事で、しばらくの間スコップと花束を持ってぽかんとしていた。

佐藤君と僕は、気をとりなおして車に乗り、墓地までの山道を走った。土肌の斜面を上り、橋本君の両親のお墓を見つけた。何処へ埋めて良いか分からず、足に障害を持つ佐藤君のかわりに、墓の前の敷石をどけてスコップで掘りだした。

こんな事をしてもいいのだろうかという疑念がよぎった。土が乾燥していて、なかなかうまく掘れなかった。

予想に反して、両親の骨壺は出てこなかった。欲張って大きい骨壺にしたので、穴に入り切らなかった。佐藤君が苦笑したが、何故かもっと深く掘ろうとはしなかった。土を盛って敷石を置くと少し傾いた。花束をそえ、水を撒いて、ひとしきり手を合わせた。

毎年お彼岸が近づくと、傾いた敷石を直さないと、と思いながら14年が過ぎてしまった。

(橋本君が愛用のハセルブラッドで撮った写真)


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