遠き山に日は落ちて 第4話 キッチン

キッチン

リザボー通りを左へ曲ると、突き当たりでタクシーは止まった。

「ここよ…」とデビーが言った。

棟続きの奥から2番目。

3段程の石段を上がり、ベルを押した。

たしか、ニュージャージーに住でいる友人のアパートも、リザボー通りだった。多分この通りの上には、ため池が有るはずだ。

そんな事をぼんやりと考えていると、ドアが開き、ロッドスチワートを思わせる風貌の男が顔を見せた。

キッチンに案内され、紅茶をご馳走になった。

デビーは、明日の朝7時に迎えに来るよと言い残して、帰っていった。

ここでロッドスチワートに似た彼と、2週間暮らすことになった。

彼の名前は、ガイといった。ガイが、ひとしきり部屋を案内してくれた。

一階には居間があり、ソファーの上に大きなぬいぐるみがたくさん並んでいた。

廊下の突き当りがキッチン。

右手のドアを出るとポーチがあり、奥まった庭は広かった。ドアには猫が出入りする扉が付いていた。近所の猫が遊びに来るということだった。

二階が、ガイの寝室とオフィス。バスルームがあり、階段には母親の若い頃の写真が飾ってあった。

三階の屋根裏が僕の部屋だった。

そんなに広くはないが、ベッドに寝転ぶと大きな天窓から空が見え、快適だった。タンスの引き出しを開けてみると、タオルがきれいに並んでいる。週に一度、掃除をしにきてもらっているとのことだった。

彼の寝室以外は、どの扉も1cm程開けてあった。それが、「入っていいよ」というサインだと分かるのに3日かかった。寝る時以外は、僕の部屋の扉も1cm開けておいた。

彼の仕事は一風変わっていた。ストーリーテラーといって、学校や公共の場所、個人の家へ出向いて行って、お話をすると言うものだった。僕は、説明されてもイメージがわかなかった。

デビーには、自炊してねと言われていたが、結局、ガイが毎日ごちそうを作ってくれた。

あっと言う間に一週間が過ぎた。

土日を使って、バーミンガムから電車で3時間のロンドンへ行って、友人のダグに会った。

パブを梯子して、ひとしきり飲むと、ダグの友人の誕生パーティーに誘われたが、飲みすぎた僕は、ダグの部屋でくつろぐことにした。

ダグが出て行くと、入れ替わりにクリスティーナが入って来たので聞いてみた。

「イギリス人てどう?」

歌手志望の彼女は、北欧から来てロンドンに住み着いているとの事だった。

「私は、ここに慣れるのに2年かかったわ。褒められても真に受けてはだめよ」

「私なんてね、すっごく褒められたの。また行くよって言ったんだけど、来たためしはないんだから」

「だけどね、一旦親しくなると驚くほど気を使ってくれるの。そこまでいくのが大変なの。何度もテストされ、それを全てクリアーしないとそこまでいけないの」

「会話の中に、そのテストが隠されているのよ、わかる?」

彼女は延々と喋った。

バーミンガムへ戻ると、いつもどおり、早朝にデビーが迎えに来て、近郊の学校へ出かけた。

今日は、上品な感じのボッドレイハイスクールだった。

教室へ入り、デビーが机に腰をかけて美術の変遷を簡単に説明した後、僕の仕事である学生とのワークショップが始まる。

ワークショップが終わると、学校の食堂で昼食をとってから、別の学校へ移動する。これを毎日繰り返していた。

この日もワークショップを終えて自分の部屋へ戻り、靴を履いたまま、ベッドにごろんと仰向けになった。

天窓の青空を雲が横切るのをぼんやり眺めていると、突然大きな音でモーツアルトが聞こえてきた。

階段を駆け下りると、ガイが上機嫌で料理を作っていた。

ステレオのボリュームはMAXまで上げられ、キッチンの窓と裏庭につづくドアが開き放たれていた。

僕は、怪訝な顔で聞いてみた。

「こんなにボリューム上げて大丈夫?」

「今日は、特別の日なんだ、別れた妻の誕生日。この曲は、初めてのデートで行ったコンサートの曲だよ。」

「いつごろ別れたの」

「2年半前、今はあそこに住んでいる」

ガイが指さす方を見ると、キッチンの窓越しにバックヤードの庭があり、その奥に、ここと同じような棟続きの建物が見えた。

「2階のあの窓だよ」

ガイは、うきうきしながら、特別料理を作り出した。猫よけの竹串に囲まれた裏庭にハーブを取りに行くと、半開きのドアを、さらに大きく開けて戻ってきた。

料理をしながら、窓から向かいを見つめる。

テーブルに付くと、ガイはワインを注ぎ、さあ食べようと笑顔で僕を促した。

去年は、誰と食べたのだろうと思いながら聞いてみた。

「どうして出て行ったの」

ガイはワインを一口飲んだ。

「僕の仕事は、出歩く事がとても多いんだ。それが原因かな」

「彼女は、まだ再婚していないの?」

「一人で住んでいるよ」と、ガイは即答した。

食事が済むと、ステレオのスイッチを切り、セレモニーは終わった。

食器をディッシュウォッシャーに入れる間も、ガイは窓から目を離さなかった。

こんな特別の日に、僕とさしむかいでごちそうを食べる彼を、気の毒に思った。

ヒュウと風が吹き、庭の金鳳花が揺らめいた。

ガイが新しいワインの栓を抜いた。

小さく切り分けられた特別のチーズを彭ばりながら、ワインを飲んだ。

彼女の事をもっと聞きたいと思ったが聞けなかった。別れた妻がなぜ、あのマンションを選んだのか知りたかった。

翌朝、助手席でリンゴをかじりながら、運転するデビーに昨夜のことを話し始めると、「話さないで」と、さえぎられた。

ワークショップの仕事も終わり、最後に小さな展覧会とパーティーをしてくれた。

ディナーに招待する人を知らせてほしいと言われたが、知り合いがいないので、唯一知っているダグと、ハミッシュフルトンの住所を告げた。

2人とも来ず、テーブルのネームプレートだけが残された。

デビーが、とっても気を使って「ハミッシュフルトンはテートで個展中だから来られない」と言ってくれた。

帰国の前日に、ガイが友人のボブを呼んで、肉の詰め物をした特別料理を二人で半日かけて作った。

僕は、小太りで陽気なボブとガイが、キッチンに並んで立ち、鼻歌交じりに料理をしている後ろ姿を、眺めていた。

ひょっとしたら、彼女が出て行った原因は…と感じながらワインの栓をぬくと、庭のポプラがそよいだ。

リクオ


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