遠き山に日は落ちて 第16話 NYからの電話 1990年8月2日

玄関の前、夏の日差しを避け、軒下にダンボールを敷きつめ作品を作っていた。

そこは、奥まった路地になっていて、屋根の間から見える四角い空を数本の電線が斜めに切っている。コンプレッサーの音がぶるぶると響き、コンクリートが白く光る。

半開きの引き戸の奥で電話が鳴り、ぼそぼそと話し声が聞こえた。

「Tさんよ、NYの」

しゃがんだまま振り返った。汗をぬぐい受話器をとった。

「やあ、どうしてますか。NYのTです。お墓の掃除の仕事しませんか。草むしりをして、お墓を洗って花と線香をあげると三万円になるんですよ。」

唐突な話に、照り返しで輝く光をぼんやり見つめていた。

「実はね、今日の朝日の朝刊にでていたんです。建築会社に勤めていた人が工事の時にたまたま横にあったお墓を掃除したら、大変喜ばれて、それがきっかけで会社を辞めお墓参りの代行の仕事を始めたのです。新聞に小さな広告を載せて始めたらしいのですが、一件三万円で月七十件ぐらいの仕事が入っているそうなんです。これだと資金が要らないし、まだやっている人がいないから今のうちだと思うんですよ。」

「僕の声にエコーがかかって聞こえにくいのだけれど」

「あー、それはね、声がロンドン経由でインドを回っているからですよ、たぶん」

「Tさんの声は良く聞こえる」

「それは良かった」

あまり興味を覚えなかったので返事にこまった。

「それは面白そうですね。東京ですか。」

「えーっと、そうです」

「それはTさんがやりたいのでしょ。」

「そう、日本にいたら僕がやりたい。掃除した後で写真を送ってあげるんです。新しいお墓は三十万個ずつ増えるそうだから、仕事は無限にあるのです。」

エヤーガンに日が当たり、ノズルの詰まるのが気になりだした。

「ところで今どうしているのですか、寿司屋はやめたの」

「うん、今は新聞の仕事だけ、九月からグリニッジビレッジの方で小さな寿司屋を任されるんだけど、オーナーではないよ」

「その方が気楽でいいでしょ」

「いや、少し歳をとると自分のものが欲しくなるものですよ」

「NYへは、いつ来ても住む所と仕事は何とかするから心配要らないですよ。南米を見せてあげたい、絶対いいから。NYへは直接来ずにロサンジェルスへ入ってグレーハウンドバスで横断した方がいいです。三ヵ月かかるけど安いし、いきなりNYっていうよりいいと思う。夏なら北を回って、冬なら南を回ったらいい」

「ナイヤガラとグランドキャニオンは見ましたか」

「僕はね、風景には感動しない人間だけど、あれだけは違うね」

「この間サンバを少し教えてもらったけれどあれは面白いね」

「踊れるの」

「踊りと楽器を少し教えてもらったけれど、リズムに乗るのがとっても難しい。日本の音楽とアクセントの位置が全く逆なんだ。」

「あれはね、南米でも黒人の血が入っているひとでないと駄目だよ。ディスコでもサンバがかかるとほとんど人が散っていく。僕は、ダンスが旨くなったよ」

「ディスコか」

「そう、女性を獲得する踊りを習得したんだ。まずね、相手の目をじっと見る、そして突然目をそらす。それからまた見つめて今度はくるりと背を向けるんだ。そうすると彼女は、何処へ行ったのか戸惑う」

「そんなことをしたら、そのまま行ってしまわないか」

「それからいきなり彼女の前に現れて、今度は輪島のカエル跳びの要領でぴょこんとしゃがむんだ。すると顔が調度股間のあたりに来る、それからが大事なんだ。炎の様に体をくねらせながら伸び上がる。これなんですよ。僕はね、やっと世阿弥のリケンノケンを習得したんですよ」

「え、それ何」

「そう、それから今度は遠くへ離れて」

「そんなんで本当に大丈夫か」

「ほんとですよ、遠くに離れて、腕を伸ばして指差す、これなんですよ」

「それは、トラボルタのサタデーナイトフィーバーだよ」

「いや、僕はあの映画を見ていないから知らない。僕がこれを会得したのはカリブの島のある村で十二~十三歳の男女が踊っていたんですよ、子供だけど、それは全く踊りがドラマなんです」

「リケンノケンてどんな字を書くの」

「いや、カリブでは全てがドラマなんです。透明のブルーに萌える様な赤、赤はすでに燃えている。黄色は空を飛び、モーブは頭の上から降ってくる。七色の糸が足にまとわり付いて転げそうになるんです」

「どんな字を書くの」

「純金の月が海に沈むと、溶けたアルミを水に落としたような音がして、コバルトグリーンの煙を上げ、それが海に溶け出した頃、子供達が踊り出すんです。あの歳でどうしてあれだけの表情が出来るんですかね…。離れて見ている自分を見る…と書くんですよ」

「それは難しい」

もう一時間程が過ぎた。

「女性はね、自分が気に入られているってことをはっきり分からせないと駄目なんです。絵を描くときもそういうのってありますか」

「うーん、それは……」

コンクリートの照り返しがどんどん白さを増し、電話の声が耳の中でかすれていく。

「お墓どうしますか…今のうちだと…思うんですよ……人が増えると…出来ないし……お盆だけじゃなくて………命日もあるし……………

1985年


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