遠き山に日は落ちて 第12話 父

ヨーロッパ、中近東、アジアと、3年間の放浪から帰国して、数ヶ月がたったある日、父に誘われて、梅田地下街の小さいお寿司屋へ行きました。

こんな事は初めてでした。

のれんをくぐり、7人ほどが座れるだけのカウンターに、父と並んで腰をかけました。

父は「ここはネタが良い」と言って、刺身とお酒を注文しました。

カウンター越しの壁を見つめていた父は、一口飲んでから、話し始めました。

「君は、大学へ行って就職もせずに3年間も外国へ行った。君はその3年間で何を学んだのか?」

突然の質問に僕はめんくらいました。何も言葉がうかびませんでした。

「僕は、べつに何も学ばなかったけれど????  ただ、人は一人では生きていけない事だけは分かった」

少し間があり、「そうか、それでじゅうぶんだ」

父とかわした会話はそれだけでした。

それ以降、僕がぶらぶらしていても、父は気にしていない様子でした。

よく我慢していたなと、今は思っています。そんな僕が、今は自分の子供が心配でなりません。

実際、国外で3年もの間、なんとなしに生きていけたのが不思議です。

ヒッチハイクをしながらの3年間の旅でしたが、お金は最初の3ヶ月で底をつき、売れる物は全て売りました。

ギリシャにいた時は、売血もしました。

ベッドに寝かされて、仕切りのカーテンの間から腕を伸ばして採血されるのですが、血を採られているところは見えませんでした。

400ccのはずの採血で、僕は、意識を失ってしまいました。

僕の血液型は欧州人には少ないO型だったので、そうとう血を抜かれた様に思います。

診療所を出ると、血を作る必要があると思って、レストランへ直行しました。

とにかく肉を食べると、もらった現金がほとんど無くなってしまいました。

ノルウェーのオスロでは、大使館の新年会に招待されました。たぶん、アウトローの生活や考え方に興味を持たれたのだと思います。オスロ在住の名士と思われる日本人達が集まっていました。

外交官らしき人が、ソファーで飲んでいた僕に近づいてきて、話したことをよく憶えています。

「毎日、決まった時間に起床して顔を洗って歯を磨いて下さい。その後は、また寝てもかまいません」

その時は、聞き流していましたが、今から思えば、親心で心配をしてくれていたのだなと思います。

そのころは、好奇心を食べて生きていました。

大地に根を張って生きていくという言葉に、反感をおぼえていました。

地面から10cm上を歩こうとしていました。

目的の無い生き方に憧れたのですが、目的が無いという目的ができてしまい、これは不可能なことと知りました。

僕が国外へ出発した日に、自宅の部屋に一羽の野鳥が迷い込んで来たそうです。

両親は、その鳥を僕だと感じて育てていたと、帰国したときに姉から聞きました。

父親は、92才のときに癌で亡くなりました。

癌の末期症状で危篤の知らせが入り、入院先へ駆けつけると、ベッドのまわりに、兄弟全員が集まっていました。

姉から「なにか話しかけて」と言われました。

僕は、体中にチューブを付けた父の耳元に近寄り、「絵が売れた。」と囁きました。

すると、臨終間際の父が、「なんぼで売れた!」と声をだしました。

意識の無いはずの父が、突然しゃべったので、皆あぜんとしました。

これが父の最後の言葉となりました。

親とは、どんなときでも子供が心配なのです。

特に美術をしていると。

1975 Pakistan


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