遠き山に日は落ちて 第13話 オーヘンリー (モロッコ 1972年)

オーヘンリー      モロッコ 1972年

フェリーでジブラルタル海峡を渡り、セウタに着きました。

セウタは、アフリカ大陸にあるスペイン領です。

「カサブランカ」という言葉に惹かれて、海を渡ったのです。たしか、映画のタイトルだったと思います。

バスターミナルを探しあて、バスに乗りました。思いつきで行動していたので、地名以外は何も知りませんでした。

終点だと言われて下ろされたのは、小さな村でした。

途方にくれて、とりあえず村人に道を聞くのですが言葉が通じません。

カサブランカ!と叫ぶと、方角を指差して教えてくれますが、聞くたびに皆それぞれ違う方角を指指すので、あきらめました。

地図もなく、自分の立ち位置もわからず、身動きがとれません。

そのとき、何故か思い出したのが、中学校の英語の教科書に出てきたオーヘンリーの短編でした。

英語には興味が無かったのですが、英語の先生は面白い人でした。

黒ぶちのメガネをかけ、ひょうひょうとした小柄な先生は、人生を200年と思いなさい。そうすると、考え方が変わると言っていました。

とりあえず最初の50年は、まじめに働いてみるのもいい、次の50年は…。

中学生の時に読んだオーヘンリーの物語というのは、古美術商の話でした。

古美術商が、骨董品を探すために郊外の村へ行ったとき、まず最初にする事は村を見渡せる高台を探す事でした。

高台から村を眺め渡し、寂れた屋敷を探すのです。

寂れた屋敷というのは、昔はお金持ちだったが今はお金が無いということであり、高価な物がたくさん眠っているという事なのです。

古物商は、そこへ行って、言葉巧みに、高価な物を、タダ同然で仕入れるのでした。

僕は、とりあえず一番高い所に向かって歩き出しました。

高台から眺めてみると、眼下に荒涼とした風景が広がり、1本の線路が見えました。

僕は、ほっとして、まず太陽の位置で方角を見定めてから、線路沿いに歩く事にしました。

これでカサブランカの町の中心街へ行けるはずです。こんな形で一番苦手だった英語の授業が役立つとは意外でした。

町にたどり着き、マラケシュに行けば砂漠の入口があることを知りました。

「砂漠」と言う言葉に強く惹かれて、その日の内にカサブランカを後にしました。

マラケシュでは、広場の観光客の輪の中に、絵本に出て来そうなコブラ使いがいました。

広場の奥に、メディナ(旧市街)がありました。

きょろきょろしていると、すかさず客引きの子供が寄って来て、案内すると言ってしつこくまとわりつきました。

これは、危ないと分かっていましたが、行くあてもないので、言われるままについて行く事にしました。

スーク(市場)に入ると、路地が迷路のように続いていました。

足早にどんどん奥へ進んで行く彼に、ついていきました。

右に左に、何度も狭い路地を曲がり、最後には、路地の奥のそのまた先の、奥まった部屋まで連れて行かれました。

部屋へ入るなり、後のドアが閉められました。

窓も無い小さな土塀の部屋に、数人の男が座っていて、金を出せ、と凄まれるはめになりました。

予想はしていたのですが、いざこうなってみると途方にくれました。

ところがその時、僕は、自分でも驚く、思わぬ行動にでました。

当時23才だった僕は、親分格の人に言ったのです。

「おとうさん、僕は学生です。だからお金は持っていない」

「my father, my father, father,,,father,,,」と嘆願する目つきで、「おとうさん」を連呼したのです。

すると親分は、困った顔つきになり、とうとう「帰れ」と言いました。

客引きの子供に案内されて、無事にスークをぬけだしました。

高台から見た風景と、スークでの親分の困惑した目だけが、今も脳裏にやきついています。


1975年2月8日 ワルシャワのカフェテリアにて


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